人は誰しも「自分は正しく傷つけられた側だ」と思ってしまう瞬間があります。
誰かの言葉や態度、環境、過去の出来事――
「悪いのはあの人」「私は被害者」という立ち位置は、安全で、説明がつきます。
しかしその“安全地帯”は、ときに自分の人生を止めてしまう場所にもなります。
僕自身もそうでした。
きちんと傷ついて、きちんと失った経験があると「私はこれだけ大変だった」と証明し続けることが、いつのまにか“生き方”そのものにすり替わっていく――。
この第一部は、まさにそこへ踏み込む章です。
本書『幸せになる勇気』は、「嫌われる勇気」では語りきれなかった“その後の対人関係”を、さらに深くえぐり出していきます。その第一部のタイトルが、
「悪いあの人、かわいそうなわたし」
ここには、私たちが無意識のうちに抱えてしまう“被害者という居場所”の構造が描かれています。
そして、この構造を理解できたとき、人は初めて「過去から自由になる準備」を始められます。
ここから、その内容を僕自身の気づきも交えながら紹介していきます。
アドラー心理学は宗教なのか
アドラー心理学はしばしば“宗教”と誤解されます。
なぜなら「人を救う」ことを扱うからです。
しかし両者には決定的な違いがあります。
宗教:完成された物語(救済の約束)
アドラー:いまを生きる態度(実践の勇気)
宗教は「枠組み」から救いを与えますが、アドラーは「解釈の仕方」から人を解放します。
アドラーは言います。
わたしたちは客観の世界を生きているのではなく、
主観の世界を生きている。
つまり、人生は出来事ではなく“意味づけ”でできている。
だからこそ、自分がどんな態度で世界を見るかによって幸福度は変わる。
僕自身、昔は「過去に傷つけられたから今がうまくいかない」と思っていました。しかしこれは“過去が原因”なのではなく、“被害者である目的”で今を解釈していたのだと気づかされました。
この哲学は「信仰」ではなく、生きる姿勢そのものです。
教育の目標は「自立」である
アドラーは教育の目的をシンプルに定義します。
教育 = その人の「自立」を助ける営み
この自立とは、自分の力だけで生きることではありません。
むしろ逆で、
他者と健全に関わりながら生きていける力
を意味します。
もしこの地球上に自分ひとりしか存在しない世界なら、教育も訓練も必要ありません。
“他者が存在する”という現実こそが、人間に学びを生む。
だから本書では、道徳や優秀さより「関係」を扱います。
自立とは、「上下」でも「従属」でもなく、「対等」を志向する態度なのです。
僕は長い間「優しさ = 自分を犠牲にすること」と思い込んでいました。それは自立ではなく、“他人基準で生きる従属”でした。
いま思えば「自立」を知らなかっただけでした。
尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
尊敬とは、人の能力や成果を称賛することではありません。
アドラーが定義する尊敬とは、
その人の“存在”をあるがまま認める態度
つまり、
・変えようとしない
・比較しない
・矯正しない
・上にも下にも置かない
そのまま、その人として受け止める。
これは簡単そうで、実際にはもっとも難しい態度です。
親、教師、上司――指導の立場に立つ人ほど“正しさ”で相手を矯正し、結果的に尊敬から離れてしまう。
尊敬とは“支配しないまなざし”であり、これは「上から」ではなく「隣に立つ姿勢」です。
「他者の関心事」に関心を寄せよ
尊敬と並び、本書が強調するキーワードが《共感》です。
共感とは、
「あなたの気持ち、わかります」ではありません。
アドラーが言う共感は、
他者の目で見て
他者の耳で聞き
他者の心で感じようとする
という“態度”です。
他者の世界の入り口に立とうとする。
それだけで関係は変わります。
しかし、人が最も疲れ、孤独で、自分を守りたいとき――
この共感を失います。世界が分断されるからです。
僕にもその時期がありました。
孤立していたのではなく「心を閉じて守っていた」のだと今ならわかります。
あれは弱さではなく、“精一杯の生存戦略”でした。
もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら
アドラー心理学が他の心理学と大きく異なるポイントがここです。
「人は客観的世界ではなく、主観的世界を生きている」
つまり、同じ出来事でも“どんな世界観で受け止めているか”によって、意味がまったく変わる。
もし、その人があなたと同じ種類の心、同じ種類の経験、同じ種類の傷を持っていたとしたら――
その人がその行動を取るのは“当然”の結果かもしれない。
人を理解するとは「理由を許す」ことではなく、
「世界の見え方の違い」を理解することです。
これは同時に、自分自身への理解にもつながります。
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
本書では「勇気づけ」という言葉がたびたび登場します。
勇気づけとは、結果ではなく存在に光を当てる態度です。
・成功したから価値がある
・頑張ったから認める
ではなく、
そこにいるあなたに、すでに価値がある
というまなざし。
面白いのは、勇気も尊敬も“伝染する”という点です。
安心と対等を感じた相手は、今度は別の誰かにそれを返していきます。
僕はこれを身をもって体感した瞬間があります。
「わかってもらおう」と必死に説明した時よりも、“説明しなくても受け止めてくれた”人に出会ったとき、初めて心が緩んだ。
その安心感は、言葉ですらなかったのに、僕の態度の一部になっていきました。
「変われない」本当の理由
人が変わらないのは「変われないから」ではありません。
変わらないことで守られている“心理的な利益”があるからです。
・かわいそうな自分でいれば、失敗しても責められない
・悪いのは他者だから、自分の課題を直視しないで済む
・立ち止まっても「仕方ない」と説明がつく
この守りの構造を、アドラーは目的論で解きます。
原因(過去)ではなく
目的(いま選び取っている安心)
僕にも覚えがあります。
心のどこかで「僕はこれだけ傷ついた」「だから進めないのは妥当だ」と、自分を守っていた時期がありました。
それは敗北ではなく、精いっぱいの自己防衛です。
この“守り”を責める必要はありません。
ただし――その期限が過ぎたとき、人は苦しくなります。
あなたの「いま」が過去を決める
アドラー心理学の最も革命的な考え方がここにあります。
過去は「出来事」ではなく「解釈」である。
つまり固定ではない。
私たちの人生は「何が起きたか」で決まるのではなく、
その出来事に“いまの自分が与えている意味”で形づくられています。
だからアドラーは「本当の意味での過去は存在しない」と言います。
いまの意味づけを変えた瞬間、過去は姿を変えて立ち上がり直す。
僕自身も、ある時ようやくこう腑に落ちました。
あの出来事は僕を壊したのではなく、
僕が“どう生きたいか”を問う起点になっていたのだ――。
過去は、やり直されるのではなく
“再編集される” のです。
悪いあの人、かわいそうなわたし
第一部で最も核心的なメッセージです。
人間の心は三角柱でできており、
一面には「悪いあの人」
もう一面には「かわいそうなわたし」
そして最後の面には「これからどうするか」
過去にとどまっているとき、
私たちは最初の二つの面の中を行き来します。
僕も長く「かわいそうなわたし」の面に留まっていました。
そこにいると、安心はあります。
しかし未来は閉ざされています。
“かわいそうなわたし”という役割を守るには、
必ず“悪いあの人”が必要になります。
加害者を失えば、被害者の役割もまた失われてしまうからです。
ここで多くの人は気づきます。
本当に僕を縛っていたのは、過去の出来事そのものではなく、
「かわいそうなわたし」という安全地帯だったのかもしれない。
この章で、本書は初めて“過去の正しさ”ではなく“未来の自由”へ話題を移します。
アドラー心理学に「魔法」はない
アドラー心理学には“魔法の言葉”も、“一夜で変わる方法”もありません。
あるのはただ一つ、
「態度を選び直す」という地道な営み
です。
悩みを消し去るのではなく、
悩みとの「立ち位置」を変える。
他者を許すのではなく「他者との線引きを変える」。
過去を消すのではなく「過去の意味を変える」。
だからアドラーの思想は、表面的な“自己啓発”とは違います。
情熱でも綺麗事でもなく「生活の現場」に降りてくる思想だからです。
勇気とは未来のための資質ではなく、態度としての筋力です。
少しずつ鍛えられる。
ゆっくりだが、確実に変わる。
ここでようやく、三角柱の“第三の面”――
「これからどうするか」
という問いが、主体的な姿勢として浮かび上がってきます。
まとめ:では、これからどうするか
第一部が伝えたかったことは、突き詰めればこの一言に尽きます。
わたしたちは「いま」の態度を選ぶことによって、過去を決め直していける。
変われない理由は「過去」ではなく「選んでいる安心」だった。
だから責める必要はない。
守られていたのだから。
しかし、それでもなお――
これからの人生を自分の手に取り戻したいと思った瞬間、人は“第三の面”へ進む準備が整います。
アドラー心理学は人を責めません。
ただ「あなたの手に舵が戻ってきていますよ」と静かに教えてくれるだけです。
そして第二部・第三部では、この“舵の切り方”がより具体的に語られていきます。
ここからが、いよいよ「実践としての幸福論」になります。
もし第一部の時点で何かが胸に引っかかっているなら、
その続きを本で追いかける価値は十分あります。
なぜなら本当の変化は――
「理屈を知った瞬間」ではなく、
「態度が変わり始めた瞬間」から始まるからです。
ウチです。
日々の練習や気づきをブログに残しています。
最近はペン字を中心に、手を動かすことを大切にしています。
特別な肩書きはありませんが、続けることを心がけています。

